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2014年4月12日土曜日

加点と減点の見方

 こんにちは、稲田商会です。

 先ほど思いついた事を投稿するので、内容がまとまっていない可能性があります。
 ご了承ください。

 話は、加点主義と減点主義の話です。
 何かで「日本は減点主義から加点主義になるべきだ」との話をしていたのを聴いて、少し考えました。




 何かを評価するときに、加点主義と減点主義が思いつきます。

 この、加点主義、減点主義は国民性にもとづくもののようで、日本では、減点主義が主流であると言われています。
 一方、アメリカなどでは加点主義が主流との話があります。

 経済的に成長期にあったり、先行するものを追いかけたりする立場にある場合は、効率的な体制を確立した上でその体制を継続させることが望ましいと考えられます。
 それは、体制の変化を厭う方向であり、減点主義が適合し易いと考えられます。

 経済的に混迷期にあったり、先頭に立って新たな道を模索する立場にある場合は、変化しやすい体制にして方向性が見えるまで変化し続けることが望ましいと考えられます。
 それらは、体制の変化を好む方向であり、加点主義が適合しやすいと考えられます。

 日本の経済状況では、昔は“体制の変化を厭う方向”にあり減点主義が社会に適合し易かったのですが、昨今は“体制の変化を好む方向”にならざるを得ない状況にあります。
 そのことで、社会状況としては加点主義が望まれていると考えるのですが、日本の国民性として減点主義が根強く残っており、社会全体としても加点主義が望まれていながらも減点主義が主流にあるように思われます。

 日本の教育などでは、どうやら加点主義の教育が進められているようです。(具体的証拠はありませんが)
 よくある“若いものは叱られてないので叱るとすぐ萎縮する”などの話があるのは、減点主義に立って生きている世代が加点主義の世代を見て言っていることなのかもしれません。

 ここまでが、前段です。

 さて、減点主義を加点主義に変えると「なんでも褒めまくるからおかしくなる」と考えてしまいます。
 本当にそうでしょうか。

 私は、減点主義の考え方は、こういうことだと思います。

  • 結果が望ましくてもそれが普通で評価なし、望ましくないなら減点
  • 過程と結果は結びついているから結果が良くても評価なし、悪ければ過程も減点
  • 偶発的要因による失敗も、意図した行動による失敗も、同じ失敗として減点
  • 結果の評価は、その人物の人物評価と同一


 また、加点主義の考え方は、こうではないでしょうか。

  • 結果が望ましければ加点、望ましくないなら評価なし
  • 過程は結果に直接結びつかないので、将来的に結果が期待できる過程なら加点、そうでないなら評価なし
  • 偶発的要因による失敗は防げる可能性があるのでそれほど重視しない、意図した行動による失敗はその人物の人物評価に問題があるとして重視(大幅な減点)
  • 過程や結果の加点評価がその人物の人物評価で加点評価、失敗に至る意図的な行動は人物評価で大幅な減点評価


 こうして書いてみると、減点主義は過去を見て評価する立場なのに対して加点主義は現状から未来の状況を想定して評価する立場だと感じます。

 加点主義の考え方では、今現在結果が望ましくなくても将来的に結果に結び付くならプラスの評価となり、“失敗に至る意図的な行動”を取るような将来的に失敗の可能性が高いならマイナスの評価になる訳です。

 さて、減点主義と加点主義の違いで私が気になったのは“失敗に至る意図的な行動”の評価の部分です。
 減点主義では“失敗に至る意図的な行動”も“偶発的要因”も失敗であるとの観点から減点はされるのですが、加点主義では“失敗に至る意図的な行動”は大幅な減点、“偶発的要因”はそれほど重視しないこととなり、“失敗に至る意図的な行動”を減点主義より加点主義ではより厳しく評価するようになります。

 日本の社会生活の中で、失敗したことは次のように考えている場合が多いと思います。

 なんらかの失敗があった
  → その失敗に携わった人員の行動が適切ではなかった
   → 携わった人員の人物評価を減点する

 これは、減点主義的に結果を過程そして人物評価に投影している考え方ですね。
 加点主義的にはこうなるのでしょうか。

 なんらかの失敗があった
  → 行動は適切で偶発的な要因によるものだった
   → 携わった人員の人物評価に変更なし
   → 偶発的要因の対抗措置を検討
  → その失敗に携わった人員の行動が適切ではなかった
   → 携わった人員の人物評価を大幅に減点する

 加点主義では“なぜ失敗に至る行動をしたのか、その意図は何か”を減点主義よりも厳しく見ていることになり、そのために加点主義では「なんらかの行動をする場合はきちんと自身が意図を持って行う」ことが要望されていると言えます。
 私は、加点主義で要望される「なんらかの行動をする場合はきちんと自身が意図を持って行う」ことは、減点主義では暗黙の了解となっており、特に触れられることが無くなっているのではないかと考えます。

 先ほど書いた『減点主義を加点主義に変えると「なんでも褒めまくるからおかしくなる」と考え』るのは、加点主義では「なんらかの行動をする場合はきちんと自身が意図を持って行う」ことを要望されることから言えば正しくないのではないかと思います。
 なぜなら、褒める前に“意図はきちんと持っている”事が明確に期待され、失敗の際にはそれを問われる訳ですから。

 以上より、私は日本の社会で減点主義から加点主義へ移行しても世の中が(従来と変わることがあっても)おかしくはならないと考えます。

  それでは、今回はこのへんで。

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