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2014年1月26日日曜日

“言葉そのもの”も見るようにしています(その2)

 こんばんは、稲田商会です。

 本題に入る前に、少し。

 ただ今(私個人的に)記事作成キャンペーンを実施しております。
 「技術的記事の他にも、感想や意見などの主観的記事や愚痴や瞬間的に思いついた事などの誰得的記事でも、練習として作成していこう」との方針のもと、とにかく作文し記事にするようにしています。
 しばらくの間、あまり面白くない記事になるかもしれませんが、稲田商会の記事作成技術の研鑽に必要な過程であるとご理解頂き、どうかご容赦下さいますよう、お願いいたします。

 閑話休題。

 昨日投稿した記事「“言葉そのもの”も見るようにしています」を書いて後、少し記事に関して考えていました。
 それで、思いついた事を書いてみます。

 前回の記事は、要約すると「誰が、どのように考えて発した言葉かを問わず、“言葉そのもの”の中に意味があるかもしれないのだから、 意図を伝える道具としてではなく、“言葉そのもの”を見るようにしないと勿体ないですよね」となります。
 が、なにか言葉がうまく繋がっていないというか、私の感覚を上手く説明が出来ていないように思います。
 こういうときは「歴史に学ぶ」のはどうかと思い、色々と調べてみたのです。

 単語の繋がりから思いついたのは言霊でした。
 ですが、“言葉そのもの”に意味があるというのは、言霊として言葉そのものが独立した存在であるとの考えではなく、言葉という観測対象とそれを観測する観測者(=自分)の関係性の中で観測することで意味を用いるものとの考えです。

 次に思いついたのは聖書でした。
 次の文言は、聖書にある文言ですが、
初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものは
ひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は、光を理解しなかった。
 (ヨハネ福音書 1:1~1:5 )
この表現では、“言葉”は“神と共に”あるほど意味を成すものとなってしまい、私の感覚には合いません。

 その次に思いついたのは「イデア」という単語です。
 聖書の言葉よりも次の文言の方がより感覚に近いと思います。
我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。
引用元: wikipedia イデア (一部抜粋)

 ただ、この捉え方では、想起されるべきイデアの模像を見ていることになり、観測者である私は思い出せていないだけになってしまいますし、イデアの模像である地上の世界であるならなんらの意味はなくなってしまいます。

 さらに次に思いついたのは、仏教のことでした。
 調べてみると、「仏性」についての記述が私の感覚に合いそうでした。
仏教では、この仏性を開発かいほつし自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
引用元: wikipedia 仏性 (一部抜粋)

 特に気になったのは次の記述です。
三因仏性
『大般涅槃経』獅子吼菩薩品に説かれるものを智顗が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因(さんいん)仏性という。
正因仏性しょういんぶっしょう - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
了因仏性りょういんぶっしょう - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露ほつろした仏性のこと
縁因仏性えんいんぶっしょう - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと
引用元: wikipedia 仏性 (一部抜粋)

この縁因仏性が、近いのかなと思ったのです。
 仏性のキーワードで私の感覚を説明すると、次のようになるでしょうか。


 私たちの中は悟りを開くための過程として今生きており、真理を正しく理解する(=悟る)ことが必要です。
 真理を理解するための準備(=正因仏性)はすでに為されているので、後は真理を拾い上げ(=縁因仏性)、理解しようとする(=了因仏性)ことをすればいいのです。
 真理は、色々なものの中に紛れ込み、遍く世界にありふれていますが、その中でも“言葉”の中に多くあるように思います。
 言葉は、発した人と受け取る自分との間を繋ぐものとしてのみあるのではありません。
 言葉は、自分に真理を気づかせてくれる、真理を孕む原石でもあります。
 言葉を発した人の心の動きの中にも真理はあると思いますが、発した人のみを見て言葉の中の真理を見失うのは勿体ないことです。
 私は、真理を含むものとして「“言葉そのもの”も見るようにしています」。


 さて、読まれた方にとって昨日の投稿よりも私の感覚が伝わる文章になったでしょうか。

 それでは、今回はこのへんで。