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2014年7月15日火曜日

青い鳥はどこにいる

 こんにちは、稲田商会です。

 先ほど書いた記事の通り、今日は暑かったんですが、そのぼーっとした頭で少し思うことがありました。
 いえ、大したことではないんです。

 「メーテルリンクの青い鳥」という童話がありますよね。

「2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行くが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語。」(青い鳥(Wikipedia)より引用)

 で、まず思ったのはこんな事です。

アイデア1:
「チルチルとミチルが手元の鳥かごの中の青い鳥をそうだと見分けることが出来なかったのは、旅による試練を経験していなかったからである」

 で、次にこんな事を思ったんです。

アイデア2:
「では、旅による試練を経験したからと言って、鳥かごの中の青い鳥を見分けられるようになるのだろうか。」

 私は「努力すれば結果が出る」との考え方は誤っていると思うのです。
 「結果が出た人は全て努力している」というのは正しいと思います。
 ですが、その逆である「努力すれば結果が出る」や裏である「結果が出なければ努力していない」は必ず成り立つものではないと思います。
 必ず成り立つのは対偶である「努力しなければ、結果は出ない」ということです。

 同様に、試練を経験したからと言って幸せを見つけられるのではなく、「試練を経験しなければ幸せは見つけられない」ということだと思うのです。(だって、試練を経験していないということはその状態(=普通)が幸せなんですから)

 その次にこんなことを思いました。

アイデア3:
「青い鳥を見分けられるのは“経験”によってだろうか、それとも“才能”によってだろうか」

 同じ習い事を同じ様にしていても片方はまずまずの出来、片方は素晴らしい出来となることがあります。
 ある程度までは経験を重ねれば出来る様になりますが、それ以上になるには型とか基本とかの延長線上から外れたところも使う必要が出てくると思います。
 そして、そのようなものが才能と私は考えます。
 反対に考えれば、才能のある方が誰にでもある程度まで出来る様にするために型とか基本とか“才能の定型化”をして教えているのだと思います。
 何が言いたいかというと、経験とはそれまでに発揮された才能の後をなぞっていくことは出来てもそれ以上のもの、新しいものを生むことは無いということです。

 その意味で、青い鳥を見分けられるのは“才能”(=生まれ持ったもの、限られた人に与えられたもの)ではないかと思うのです。

 さて、ここまで考えて結果としてこう考えました。

アイデア4:
「“才能”があるか無いかは発揮されるまで判らない、そのため“才能”の有無を判別するための経験(=試練)が必要である」

 才能があるから上手くなるのであって、「こんなに努力しているのにどうして上手くならないんだ」とか考えるのはおかしいと私は考えます。
 努力してその結果得られたものはそれはそれで納得して受け取ればよいし、結果を欲するなら才能の有無を見るために努力してみればよいのです。
 ただ、才能が無いことが努力の結果明らかになったならそれも素直に受け取るべき結果ということです。

 そんなことを、ぼーっとした頭で考えていた今日でした。

 それでは、今回はこのへんで。

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