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2014年6月15日日曜日

「色即是空、空即是色」

 こんにちは、稲田商会です。

 すこし説教臭い話になると思います。


1.「色即是空、空即是色」

 「色即是空、空即是色」
 般若心経の一節です。

 意味は、つぎのとおりです。
しき-そくぜ-くう【色即是空】 (goo辞書)
現世に存在するあらゆる事物や現象はすべて実体ではなく、空無であるということ。▽仏教語。「色」はこの世のすべての事物や現象。「空」は固定的な実体がなく空無であること。

 私は、般若心経のこの一節を中学くらいから知ってはいましたが、「あらゆる事物、現象はすべて実体ではなく空無である」との解説を教えてもらってもよく理解出来ませんでした。
 そのうち、物理学の方で「エーテル」の話が出てきて、物理学的に理解すべきなのかなとも思ったこともありました。

 それが、つい最近「もっと別の意味ではないか」と考えるようになりました。

 ここで、すこし別の話をします。

2.「悟った人」について
 インターネットを見ていると「悟った人」の話が色々と書かれています。
 その中の一つに次のようなものがありました。

 人間の人生は、RPGゲームや映画のようなものと考えられます。
 それをしている最中はその世界の中に没入しているのですが、終わりを迎えれば元の世界に戻り、「楽しかった」だの「つまらなかった」だのいろいろとその世界を俯瞰して批評することが出来るようになります。
 そして「もう一回初めから」などと新しい世界、新しい人生をまた始めるか、「もう飽きた」などとその世界を捨ててしまうかになります。
 「悟った」人間とは、そのRPGゲームや映画のような世界に居ながらにして、「この世界ってRPGゲームか映画のようなものだよね。本当の自分は別の世界にいるよね。」と気付いてしまった人のことを指すと考えられます。
 その意味で「悟った」人間は、ゲームの途中でもゲームオーバーになったような、映画の途中で結末が判ってしまったような状態にあると思われます。
 「悟った」人間は、“何か素晴らしい能力”を持つようなイメージがありますが、実際には文字通り「この世界がRPGゲームや映画のようなものと“悟った”状態になる」もののそれ以外がには何も変わらないとしています。
 それでは「悟った」人間は何も変わらないのかと言うと、そうでもないようです。
 「この世界がRPGゲームや映画のようなもの」と“悟った”ことにより、この世界で何らかの思うとおりにならないことがあった場合、「どうせRPGゲームや映画のように筋書きが予め決まっているのだから、自分の思うとおりにはならない。仕方がない。」と諦めることが出来る様になるそうです。

 『「悟った」ことによって世界の思うとおりにならないことを「諦める」ことが出来る様になる』との話は、私も何となく理解出来る様な気がします。

3.目の前の幻想
 「悟った人」の言う、”今生きているこの世界がRPGゲームや映画のように幻である”との意味で、「色即是空、空即是色」が合致すると思います。
 私も「悟った人」の話を読んだ際に、「まさしく色即是空、空即是色だなあ」と思ったものです。
 でも、それ以外の意味でもあるのではと最近思うようになりました。

 それは、20年振りくらいに家族と一緒に暮らすようになってからです。

 家族と一緒に暮らすようになると、色々な場面で小さな摩擦があると感じるようになりました。
 家族とは言え別の人格を持った個人が複数いる状態というのは、どうしても摩擦が生じるようです。
 摩擦が生じることは、自然なことで仕方の無いことだと私は思います。
 ただ、なぜ摩擦が起こるのだろうかを考えてみることにしました。

 私の思う摩擦の起こる理由は、人はそれぞれ価値観や生き方を持っているからです。
 「価値観」、「生き方」というと大層な物言いですが、それは“料理を食べる順番”であったり、“物事の考え方”であったり、“将来への考え方”であったりと、色々なレベルで表れてくるその人らしさだと思います。
 端的に言えば、「このようにする(したい)」ということが価値観や生き方だと思います。

 私の僅かな経験の中では、価値観や生き方を強く持っている方、即ち「このようにする(したい)」という気持ちが強い方は、それ以外の価値観や生き方を受け入れるもしくは認めることが出来ないことが多いです。
 まるで、「自身の価値観や生き方から成り立つ世界しか無く、それ以外は存在しないように考えている」と思えるほどです。
 そのような世界は幻なのですが、でもその方に取ってはそれ以外の世界は無いのですからその世界の中で生きていくしかありません。
 多くの場合「自身の価値観や生き方から成り立つ世界」に生きようとすると、その世界が外部と接触する度に摩擦を引き起こします。
 私が家族との摩擦を感じるのは、私の世界と家族の世界が接触して摩擦を生じていたからでしょう。

 摩擦が起これば、それによる不快感や引き起こされる問題を解決するための労力など心を疲れさせる色々なものが生じます。
 特に、自分以外の人もその世界にいるべきであると考えていると、摩擦の程度が大きくなるようです。
 自分で世界をより強固に作り上げればその世界によってより疲れる状況になってしまうわけです。

 疲れないようにするには、自分で作り上げた世界が幻であると気付けば良いのです。
 そう、自分の価値観や生き方という「色」は、実は幻である「空」なのだと。

 自分の価値観や生き方が幻だと考えれば自分の世界が無くなりますから、他の方の話もより素直に聴くことが出来る様になりますし、差異が存在すればそれを解消するか、許容するかを考えることが出来ます。
 自分の価値観に沿わないような事柄でも変えられないことなら諦めて許すことも出来るでしょう。

 「価値観や生き方が幻だと考えるとしても、やっぱり摩擦は起こってしまう」と思われる方も居られるかと思います。
 摩擦が起こるのは、前述の通り仕方ないことです。
 それを如何に心を疲れさせないように解消(解決する、いなす、ごまかすなど摩擦と感じないようにする)出来るかが問題だと思います。
 多くの場合、摩擦によって心がささくれ立ち、そのことに心が捕らわれてしまいどんどんと摩擦による心の疲れが膨らんでいってしまいます。
 それをどこかでストップする手立てとして、「色即是空、空即是色」の考え方が適用出来ると考えます。

4.まとめ
 色々とだらだらと長くなったので、言いたいことの要点をまとめます。

・「色即是空、空即是色」と言う言葉があるが、その解釈の一つとして、「自分の価値観や生き方(=色)が幻(=空)なのだ」と考えられるのではないかと私は思う。

・上記の考え方によって、家族間の摩擦などによる心の疲れの軽減(「発生すること」は軽減できない)が図れると思う。

5.最後に
 まとめると、簡単な話でしたね。
 この記事はなかなか書けなくて、書き始めてから2週間くらい経ちました。
 読み直しても、どうも通りの悪い文章ですが、私の文章力がこの程度なのでしょう。

 この記事が読まれた方の何らかの役に立てば幸いです。

 それでは、今回はこのへんで。

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