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2014年5月24日土曜日

久し振りの独りの夜

 こんばんは、稲田商会です。

 久方振りにワインを飲んで楽しい気分になっています。

 以下、だらだらと思いつくことを書いていくので、ご注意ください。


(注意: 判る方には判る程度のぼかした書き方をしています。すみません。)

 今日は、下宿にいます。
 そして、久し振りにお酒(ワイン)を飲んでいます。

 今日は、引越屋さんとの現地見積り兼打ち合わせと、不動産屋さんへの退去の手続きをしてきました。
 さあ、これでこの下宿にいられるのも日が切られました。
 あと、2週間でこの街とも、そして四国ともお別れです。

 帰り道、ふらふらとさまよいながら、この街での思い出を考えていました。

(ここから回想です)
 5年くらい前になるでしょうか。いや、もっとかな。
 うちの会社で、支店を出すことになりました。

 うちの会社できちんとした出先があったことは無いので、「どのように出先を運営すべきかはすべて自身で開発する必要のある」状況としての開設です。
 その話が出たころは、うちの会社が新しい社屋に変わって1ヶ月も経っていないころでした。
 私は、それまでの社屋が自転車5分だったのが、新しい社屋で車で20分の道程が遠く感じて、「しんどいなあ」とだけ思っている状況でした。

 出先を設けるにはそこに出される人員が必要ですが、それが誰になるかを他の人は色々と話をしているようでした。
 私は人の話に混ざるのが苦手なので、まあ、誰かがいくんだろうなと思って、特に気にしていませんでした。
 あるとき社長に呼ばれて、「出先に行ってくれ」と言われたときには、「何で私なんだろう」と戸惑いました。
 で、「きっと新しい社屋の中で要らない人員を選んだのかな」との考えで納得することにしました。
 一緒に出先に行く人員はYくんでした。
 Yくんは、その時点で2〜3年前位から中途採用の形で働いていたのですが、私はあまり深く話をすることはありませんでした。

 出先に会社から机を持っていったりしたときの状況はあまり覚えていません。
 8階でビルの最上階。
 隣にはビル運営会社の社長(オーナーでもあったと思います)、奥には業界団体の方が居られたのですが、フロアで6人程度と(別フロアが40人くらいいるのと比べると)静かな状況でした。

 そうそう、どんなことからだったのかよく覚えていませんが、近くの状況を知りたいと周囲のお菓子屋さんを聴いたことがあったと思います。
 私は前の会社で近くのケーキ屋さんのケーキを買って女性陣にあげたりしていたことがあったので、その時の癖でも出たのだと思います。(ちなみにケーキを買うことが楽しいのであって、女性陣がどう思うかはあまり関心がなかったです。と言うよりも、迷惑に思っている女性陣に押し付けていたように思います。)

 ビル運営会社の社長(といいつつ、私とYくんの間では「管理人さん」と呼んでいました)も、奥の団体の女性陣(常勤が女性2名、男性1名でした)も甘いものがお好きだったので、ケーキとかを買ってきては渡していました。Yくんは甘いものが苦手だったので、お菓子を食べることはほとんどありませんでした。
 お菓子のおかげかどうかは判りませんが、管理人さんともとても仲良くなれましたし、奥の団体の女性陣とも仲良くしてもらえました。
 奥の団体で書類棚の入れ替えをして古い書類棚が不要になった際、「よかったら、貰ってもらえませんか」と声を掛けてくれて、貰い受けた書類棚で本棚などになったりもしました。

 出先に勤めだして暫くは、元の住まいから80km位をYくんの車に乗せてもらって通勤していました。
 Yくんには家まで来てもらって、行きも帰りも運転してもらい、しんどい状況だったにも関わらず何も不平などを言わずに頑張ってくれました。
 朝、目覚めの悪い私に礼儀正しく接してくれたYくんには感謝しています。

 暫くすると、Yくんの下宿が用意できて彼が出先に自転車で通えるようになりました。
 私の下宿は、会社側が用意しても良いと言っていたのですが、「そのうち私はこの会社を辞める可能性があり、その時に会社の借りた部屋では困るだろう」との考えで自分で探すことにさせてもらいました。
 朝起きて、一人で自分の車で80km位を運転して出先に出勤し、夜自分の車で80km位を運転して帰るのは、私にはとてもきつく感じました。
 一刻も早く、自転車で通勤できるようになろう。
 そう思って、頑張って新しい下宿を探すとともに、前の下宿の片付けをしていました。

 当時の前の下宿は、ゴミ屋敷状態で万年床の周囲にはコンビニ弁当のカラとペットボトル、ワインの瓶とビールの空き缶が転がっている状況でした。
 風呂桶の中にそれらを放り込み(桶の8割位の分量でした)、シャワーの熱湯を掛けてこびり付いたものを洗い流しながら分別し、ゴミとして出せる状態にしていきました。
 2週間位はそれに掛かったように思います。

 出先近くの下宿への引越は、Yくんと先輩のYさん、Oくんが手伝ってくれて、会社の車を使って運びました。
 引越のあと、Yくん、Yさん、Oくんと新居でパーティーをしたのは良い思い出です。
(結局、この下宿に来た会社の方は、Yくん、Yさん、Oくんと退社したときに会社に置いていた荷物を運んでくれたSさんだけでした。)

 そのときから、この下宿に退職して実家に帰るまでの約5年居たことになりますね。

 出先の事務所では、YくんとOくん、Kさん、得意先のBさんなどがタバコを喫するので、「喫煙室」として運営していました。
 そうそう、上司であるHさんもその当時は愛煙家でしたね。
 「喫煙室」として得意先の方が来られることで、お茶を出して話をすることで、色々な仕事の切掛や情報を貰うことができました。
 その時に「ああ、これって営業だよなあ」と感じました。

 出先が設けられた際に、私は「営業をしろ」と命じられていると思ったのですが、私は人付き合いが好きでは無い方なので営業は無理だと考えていました。
 営業とは、口で上手な物言いをしてお客様の歓心を買うか、強く押して出て相手に押し付けることだと思っていたからです。
 それが、親しくなって情報をもらえる状態にさえなれば普通の立場で提案することが出来て、それが仕事になるのだと判り、「営業」の一形態だと思えるようになりました。

 Yくんは、もっと積極的に一日1回は得意先のフロアに挨拶に行くようにしており、「ああ、あれが本来の営業なんだなあ」と感心と羨望の気持ちを持って見ていました。

 出先で時間が経つにつれて、私が技術的にすべき仕事が増えてきて、私が遅くまで作業をするようになってきました。
 私は集中力が続かない方なので、なかなか仕事が続かず、だらだらと遅くまで作業をするので、朝お掃除のおばさんたちに寝ているところを見られたり、遅刻してYくんに心配されたりするような状況でした。
 Yくんに仕事を渡せることが出来れば、もっと良かったんでしょうけれど、私の采配が良くないので私しか作業の出来ない仕方にしてしまい、彼にとっては手伝いたいのに手伝えない、もどかしい思いをさせてしまったと思います。

 その後、Aさんが通いで来てくれるようになり、3人体制の時期がありました。
 3人もいると色々と行きたいところの話も出てきて、お昼ご飯を食べに出たりしたこともありました。

 その後、新しい仕事の分野を行うために人材が必要とのことで、「Yくんを本社に戻してもいいか」との相談が来ました。
 私としては「Yくんが居てくれるのはとても有り難いことではあるが、彼がここにいることで彼が学べることはあるのだろうか」などと考え、「Yくんを戻してよい」との返答をしました。
 今更ながらにその答えが失敗であったように思うところはあります。

 Yくんが居なくなり、一人で居るころにOさんやKさんに色々とご迷惑を掛けました。
 Oくんは去り、Kさんは別の環境になりました。
 得意先のBさんは遊びに来てくれますが、Yくんが居たころの楽しそうな話し方をあまりされません。
 「私には一人で切り盛りする能力はないなあ」と感じていました。

 一人になったころから、仕事を自分でしていてはダメだと思うようになり、本社に情報として流すことを考えるようになりました。
 でも、ある程度の情報の形で流しても、それについてのリアクションをしているようには感じられることが少なく、私の力量の無さなどを感じました。
 その後、出先の人員として、Tくんが入ってきましたが、社会人としては正しくないのでしょうけれど、私とはそりが合わない方でした。

 その後、出先の引越があり、建物の中で二人きりでいるようになりました。
 私はどうしても耐えられず、何度か彼に強い言葉を投げつけたことがあります。
 私として、彼と一緒にいることが耐えられない状態だったのだと思います。
 今思うと、どうしてそこまでこだわったりしていたのだろうと思うところはありますが、私の愚かさなんでしょうね。

 会社の都合で3ヶ月だけ同僚だったKさんもおいででした。
 Kさんには、深く話をすることはなかったですが、親しくしてもらいました。

 他の方々にもお世話になりましたね。
 得意先のKさん、Fさんには可愛がってもらいました。
 Kさんの飲み屋のボトルを飲んでよいと言ってもらったのに、なかなか夜の街に出られなくてのませてもらう機会が無く、折角のお気持ちを無碍にしてしまったように思います。
 得意先のBさんは、辞める前にわざわざ食事会をしてくれました。
 同僚のYさん、Oくんは元同僚になっても連絡を取ったりしてくれて、仲良くしてくれました。

 私の送別会のときに外勤の方が来てくださったのは本当に有り難かったと思います。
 Iさんの感謝状はとてもうれしかったです。

 ああ、だんだんと取りとめの無い話になってきました。

 色々と思い出のある四国や下宿のあったこの街と、関わりが切れる時が定まりました。
 6月の初旬にこの下宿を引き払い、荷物は実家の倉庫にいくことになります。

 今までの人生の半分を過ごしてきて、色々な方に出会わせてもらえた四国に感謝しています。
 それ以上に愚かな私に付き合い、教えてくれて、引っ張ってくれた方々に深く感謝致します。

 さて、次にここにくるのは、引越の搬出のある土曜日、そして不動産屋の立会いがある日曜日の2日間ですね。
 今度来たときはどこで何をしようか、今から考えておくことにします。

 それでは、今回はこのへんで。

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