本題に入る前に、少し。
ただ今記事作成キャンペーンを実施しております。
「技術的記事の他にも、感想や意見などの主観的記事や愚痴や瞬間的に思いついた事などの誰得的記事でも、練習として作成していこう」との方針のもと、とにかく作文し記事にするようにしています。
しばらくの間、あまり面白くない記事になるかもしれませんのが、稲田商会の記事作成技術の研鑽に必要な過程であるとご理解頂き、どうかご容赦下さいますよう、お願いいたします。
閑話休題。
以前から思っていたことを記事にしています。
世の中の方は“そんなの当たり前だよ”と仰るかもしれまんせんが、もしそう思われない方も居られるかもとの考えで書いています。
聖書の中に次のような記述があります。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:10)。これはイエス・キリストがペテロとアンデレに語られた言葉だそうです。
上の言葉を、たとえば2ちゃんねるのような匿名掲示板で誰かが投稿したことを想像してみて下さい。
聖書からの引用だと判る方を除くと、「貴方は何を言っているのですか?」と訝しがられるのではないでしょうか。
(ああ、誤解しないで下さい。聖書の文言を貶したりする考えは全くありません。)
私が思っている事はこういう事です。
「言葉はそれを話した、記述した人の裏付けを持って意味を為すことがある」
この例では、「イエス・キリストが語りそれを聖書が記述したことで、文言に意味が与えられている」と考えられ、2ちゃんねるのような“人物的な裏付けを持っていなければ意味を為さない”場合があると思うのです。
これとは反対に、どこかの落書きに「一切は空しい」と書かれているのと、般若心経の「色即是空、空即是色」との意味的な違いはどこにあるのでしょうか。
(これも般若心経を貶したりする考えは全くありません。)
私が書きたいのは、「言葉を発した人」と「発された言葉」および「受け取る人」の関係についてです。
この議論をするときに、しっかり踏まえておかないといけないことは、「その言葉を発した人が考えていたこと」と「その言葉を聴いた人が思い浮かべたこと」は同じではない、ということです。
「言葉のみがある」=「言葉を発した人が不明」の場合は「その言葉を聴いた人が思い浮かべたこと」のみしか存在しません。
「(誰かが)こう考えて言葉にした」としても、それは後からそのように推測しているに過ぎません。
また、「どういう事に意味を見出すのか」ということもしっかり踏まえておく必要があります。
言葉を発した人物の立場に意味を見出すのか、言葉の背後にある論理、考え方に意味があるのか、それとももっと他の事に意味があるのかです。
いくつかの疑問を書きます。
- 有名人もしくは自分の好きな方の「座右の銘」や「話した言葉」は多くの方が「意味あるもの」として捉えますが、それは何故なのでしょうか。
- 全く同じ「文言」を異なる人物が発した場合、それから同じ内容が汲み取れるでしょうか。
- ある人が発した言葉に「ああ、それは良い」と思い、その人と話してみると「全く別のことを考えてその言葉を発していて幻滅した」ことはないでしょうか。
これらのことは、何故起こるのでしょうか。
私はこのように考えます。
ある人(人物A)が言葉を発し、それを別の人(人物B)が受け取って何かを感じるまでの過程は次のようになると思います。
状態A:人物Aがなにかを思う
↓
(過程a:言語化)
↓
状態B:人物Aが言葉を発する
↓
(過程b:言葉の伝達)
↓
状態C:人物Bが言葉を受け取る
↓
(過程c:概念化)
↓
状態D:人物Bが何かを感じる
一部の人は、自身が人物Bで状態Dの段階にある場合、人物Aの発した過程bの言葉から人物Aの考えた状態Aを復元しようとしていながら実際は自身の考えが人物Aの考えではないかと思い込み、それによって人物Aの思い(状態A)を復元出来ていると考えている」ように思います。
それによって、過程bの言葉がどんなものであっても状態Aをきちんと理解したことになります。
わたしとしては、それだけでは面白くないと考えます。
例えば人物Aが何も思わずに発された言葉があって、それを受け取った人物Bが概念化することで有用なことになることは無いでしょうか。
「ニュートンのリンゴの話」はどうでしょう。
リンゴの実が落ちることは、何らの意味があって生じているのではありませんが、それを受け取り、取り込むことでニュートンには万有引力の法則のヒントになったと言われています。
話は変わりますが、円周率πという数字があります。
πは約3.14ですがより下の桁を求めると何処までも続いて切りがなく、超越数と言われています。
超越数は繰り返しもなく、何処までも続く数字の羅列になりますが、何処までも繰り替えしなく続くことから、「もし“何か”(絵画でも音楽でもいいのですが)をデジタル化、データ化するとそれと同じものがπのなかに含まれている」ことになります。
この話は、「πが凄い」と捉えることも出来ますが、それ以外の捉え方も考えられます。
それは、πが幾ら凄い内容の情報を内包していても、それ自体で「何かの意味が生じる」のではなく、それを「観察し、部分を取り出し、それに意味を見出す人物、立場があって初めて意味が成り立つ」との捉え方です。
別の言葉でいうと“観察対象と観察者が存在し、観察することによって意味が生じる”ということです。
先ほどの話に戻すと、私は、「言葉を発する人物に意味がある」というなら同じ程度に「発した言葉を理解した人にも意味がある」と思うのです。
同様にして、「(誰が発したのかを別にして)何らかの意味を伝達するように編まれた言葉には、それこそなにか含まれた意味がある可能性がある」と考えます。
「誰がどのように考えて発した言葉であっても、何らかの意味を含んでいる可能性がある」と考えるのです。(勿論何も意味を為さない場合もあります。)
だって「πの中から、どの部位に意味があり、どの部位を切り出してきた言葉にするのかは、観察者次第」なのですから。
今のような膨大な言葉の濁流の中に居て“意味のあること”を抽出するためには、“発した人物”によるフィルタを掛けることは、仕方の無いことかもしれません。
ですが、“発した人物”によるフィルタが絶対化して、“言葉自体”を見なくなるのは勿体ないと思うのです。
私は、“言葉”を“それを発した人物の思い”を推測するための“使い捨ての手段”として捉えるだけではなく、“受け取る人物がその中に意味を見出す切っ掛け”として“重要なもの”と思って欲しいと考えています。
そのために、“言葉”自体を“発した人物”とは切り離して、“蓄え、取り出しては咀嚼し、その中にあるかもしれない意味を探す”ようにしたいと思っています。
言葉の濁流として、渦巻いては消えていく言葉達は、もしかしたら磨かれていない宝石なのかもしれません。
「せっかく美味しい料理があるのだから、美味しく食べればよい」と同じで、「せっかく美味しい“言葉”があるのだから、美味しく“受け取れ”ばよい」だと考えます。
今回は、とりとめのない変な記事となってしまいました。
次回はもう少し、よいものにしようと思います。
それでは、今回はこのへんで。
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